2015年8月30日日曜日

爆笑問題、東大でのめんどくさい話し

いやーめんどくせえwww 以前から知ってはいたがそのめんどくさい臭いがプンプンしていたので観るのをためらっていた「爆笑問題」東大での話し。観てしまいました。

京大でのちょいちょいは少し観ていたが途中から飽きて辞めた。理由は太田ではなく京大の馬鹿教授の頭の固さからだ。

太田は芸人でありテレビタレントである。しかもNHKのテレビ番組であり討論番組という前提を無視した頭デッカチの糞教授に観る価値を見いだすことはできなくなった。

この前提条件からくるものは何か?それは太田が言う、「アカデミックな閉ざされた学問という空間で世間との乖離(かいり)がどんどん進めばそれは意味のない世界に行くのではないか?引き戻す力が必要ではないか?」

この引き戻す力=世間一般の理解できる領域=テレビ

少し無理矢理な三段論法ではあるが、そういうことだと思っている。

この辺が理解できなかったのか京大馬鹿教授は最後まで興奮しヒステリックに太田に噛みついていたから笑ったが、何にも建設されない工事現場など誰もみやしないのだ。

太田のやり方は昔から一緒で、まず相手を怒らせる、それから意見をぶつけ合うという手法。このやり方に異論はまったくない。私自身懐疑主義者なので、非常に有効な手法、手段である。相手の存在意義、相手が大事に思っていることにまずケチをつける。こうされると相手は自分の存在自体を否定されたように感じ、血圧は上がり興奮状態になり、本音がでる。

つまりお互い裸になりませんか?と言っているようなもの。

裸の付き合いとはよくいったもので、よそいきのカッコでよそいきの台詞に建設的な議論などできやしない。

太田は裸になった上でお互いがそれぞれこう思うという最高のものを出しあって議論したいのではないかと勝手に思っている。

しかし前にもブログに書いたが、批判や否定は難しいのだ。批判する対称を上回るなにがしらがないとできない。つまりそんなものなくても俺は立っていられるよ何故ならこうだからと説明できないといけないから。これは常に考え、常に疑っていないと出てこない。

疑うという行為は何かをみがく行為に等しい。疑っても疑っても残るものが人それぞれにあるからだ。その残ったもの出せよと太田は言っている。お前がみがいた石はそんなものかと貶してくる。ムカッときた東大教授が東大教授というスーツを脱ぐことなく綺麗にかわす。

インテリとはこうだと言わんばかりに綺麗なかわし、そこで太田は泥臭く煽り続けるといった流れ。

「教養」とはという題名だが、予想どおりまっすぐ哲学、形而上学、人間とは何か?というとこに行き着いていた。

疑い続ける力ってのは実は何かを信じたい何かがあるんじゃないか?と期待してるが故にわいて出てくる力だと思うのだ。

だから太田は結構ロマンチストだと思っている。意外に思われるかもしれないが、多分間違いない。期待してるが故に疑い、期待してるが故にまず相手を怒らせるのだ。

めんどくせえと言いながらこのブログのがめんどくせえwww

まあ、暇な人は観るとなかなか面白いかも。↓んじゃ

https://youtu.be/Wbkzsxrd10k

2015年8月28日金曜日

「Flavor of life」を何度も聞いてしまう

えー、flavor of life はい宇多田ヒカルの歌ですはい。

好きなんです。この歌、歌詞、メロディ。

ありがとうと♪にこれほど正確に音符をふった作品が過去にあったとは思えない。

たまにいいドラマでもいい映画でもこのキャスティング以外に考えられないという作品がある。その場合、絶対的にそのキャスティングじゃないと成立しないそのマッチングじゃないとダメなのだ。

いや、こいつじゃなくてあいつのが良くね?と思えるような作品は自分にとってツマラナイ作品に当たる。

ありがとうと♪にあてた音符は完全なのだ。

いいドラマやいい映画やいい本の条件にどこを切り取ってもいいものはいいというものが自分にある。

映画で言えばファーストシーンから小説で言えば一行目からだ。このはじめでだいたい決まってしまうと思う。

ありがとうと♪はその一発目に当たるし、この一言で"あっち"に連れていってくれる。

なにも作品だけじゃない人の人生も似たようなものだ。人生なんて言い訳の出来ないレースみたいなもので、どこの家に産まれるかでかなりの差がついてしまうのは今の社会システムからみても認めざるをえない事実なのだ。

日本における社長の息子が社長になる確率は70%をこえる。当たり前だ。それが人というものなのだ。会社は社長の私物にしてはならないと言い息子を入れなかったのは本田宗一郎だが、無限というパーツメーカーの社長になっていた筈。今は知らないが。

しかし、この視点は「金」や「権力」に絞った狭いもので、それだけで幸せかどうかは疑わしいものがある。

社長は社長でツライのだ。だいたいの人間が社長になれないものだから理解できないのはわかるが、結局のところ人の子なのである。

Flavor of life は男女の話しに絞った内容ではなく題名どおり、life つまり人生を歌っている。この、ありがとうと♪という出だしに聞いている人は簡単に持って行かれる。本来お礼という当たり前のこの言葉にどこかヨソヨソしさを感じ、なんだか切ない♪と繋がる。あなたから聴くありがとうにいちまつの不安と距離を感じるという絶妙な感覚が伝わってくる。

人は悲しみに浸る時間が喜びよりも長くそしてそのもどかしさ自体が人生そのもののような暗い内容なのだ、でもとにかく聞かせる。聞いてしまうのだ。

普段から冗談やじゃれあいから口悪く罵りあっているカップルは仲がいい証拠だし周りからみてもうまくいっているなと感じるもの。あらたまったこの"ありがとうと♪"に込められた想いが強すぎて言葉も音符もはみ出してしまう。溢れてこちらに入ってくるのだ。

嫌だと思っても世の中も時間もなんの感情もなく過ぎていく哀愁がこの曲の本筋で、彼女の自然なビブラートがさらに引き立てる。

人生捨てたもんじゃないって♪という救いも入ってはいるが、いっそ突き落としてくれてもいいんじゃないかと思う。しかし諦めが悪いのも人間だったりして、どんな状況でも希望を捨てないのは歌っている宇多田も聞いているリスナーもかろうじて自殺しないで"生きている"という現実が証明している事実。

んじゃ聞いてもらいましょうか。

宇多田ヒカルで「flavor of life 」
https://youtu.be/tpk0PxK-c5E

2015年8月24日月曜日

スクラップアンドビルドも読んでみた

もうひとつの芥川賞受賞作品スクラップアンドビルド。

火花を読んでしまったので流れで読んだのだが、僕には無理だった。まるでマクドナルドのアボガドバーガーが不味すぎて最終的にアボガドを取って食べた時ぐらい無理だった。

僕は小さい頃からキュウリが嫌いで嫌いで仕方なく、その青臭い系統の延長にあるメロンも嫌い。しかし、大人になるにつれメロンは口にしても吐かなくなったがキュウリはいまだに吐き気がするのだ。多分僕の脳が勝手にキュウリの匂いを毒だと認識してしまったらしい。

1度でも毒だと認識してまうと体は正直なので厄介だ。

おかげで冷やし中華までキュウリに汚染されてしまった毒になってしまうんだ。冷やし中華なんてうまいものを毒だなんて、不幸な奴と思われるかもしれない。しかしキュウリに1度汚染されたものの除染作業はなかなかうまく行かないのだよワトソン君。

さすがに毒とまでは言わないが小説も合う合わないがあると思うのだ。そりゃあそうだ人間だもの。

んでもって今回のスクラップアンドビルド、かなりキツイ立ち上がりから中盤にかけて我慢して我慢して読み進めてもずーと辛いw

どんなに耐え難きを耐えても光をくれないのだ。はやくはやく話しをドライブさせてくれとどんなに願ってもそれは叶わぬ夢になっていった。

もしかして俺が馬鹿すぎて理解できていないのではないかとレビューを何個か調べて読んだのだが、そこで僕が読んだレビューには「読んでいていろいろ考えさせられる」とか「勉強になる」なんて書かれていて、何言ってんだこいつら?と思ってしまった。

いやいやあんたら読んだの小説やろが!社会学者が書いた本ならわかんねん、なんで、小説よんで勉強になるとか、勉強したかったらちゃんとそういう本あるやろ。だいたい考えさせられるとか勉強になるとか滅茶苦茶冷静な理性的なコメントをレビューに書かれるということはひとつも感情を揺さぶられていない証拠ではないか?(関係ないが最近エビデンスって使う奴多いやろ俺あれ嫌いやねんw)

まあ、僕が思う面白い小説の条件みたいのがあって、そのうちの一つにこちらの感情を鷲掴みにして話の世界に連れてってくれるものというのがある。

まずそこから外れてしまった。いっこうに僕の感情を鷲掴みにしてくれないのだ。終止冷静なまま、ホリエモンが一時期流行らせた想定内から外れないのである。残念ながら今回の作品は自分の枠内で処理できてしまうもので、そうなってしまうともはや僕にとって小説ではなく説明書にすぎない。

説明書を真剣に全部読んだことがある人はいるだろうか?

いないよね?人は何故説明書を読まないのか?読んでもわからないからというのも答えのひとつかもしれない、あと面白くもなんともないしなんの役にも立たないよね。必要に応じてわからない部分だけ読むことはあるかもしれないが、それ以外も全て読む人はいないでしょ。

スクラップアンドビルドは介護という問題と祖父と主人公の関係性について書かれている。

僕の彼女はケアマネの試験勉強をしている介護士だし、姉二人は看護士である。そして僕のブログで3番目に読まれている→ 父親の看取り。 http://wataken222.blogspot.com/2015/05/blog-post.html

これらの経験や彼女との会話、姉の話し、非常に身近な話しである。身近な話しを小説にすることを狙ったものかもしれないが、自分なりに処理しているものの枠をでることはなかった。

まだそういった経験をしていない若い人達にはいい小説かもしれないが僕には合いませんでした。

読んでいて、ちょいちょい主人公と彼女との性描写が出てくる。これいる?って感じなんだが、なかなかリアルでなんか読めてしまった。セックスをテーマにした内容なら読めるかもと思いましたね。アレ?ぜんぜんフォローになっていないか?

なんか羽田君て変態そうなんだよなあw写真も文章もwそっちのテーマのが良かったんじゃね?と芥川賞を受賞している凄い作品にケチをつけるワタケンでした。

あっ樋口さんの「さらば雑司ヶ谷」のがダブルスコアで面白かったですwww

2015年8月21日金曜日

芥川賞受賞の「火花」を読んでしまった感想

とうとう読んでしまった。書店に「火花」が並び始めた頃、「ピース又吉さんが書いた本」というポップだけで「ケッ誰が読むかボケ」と思いながら何ヵ月も過ぎていき、夏もお盆にさしかかると僕は予定していた大阪に向かった。

大阪には彼女がいる。キングオブ深夜バスで朝の梅田6時半に着くと腹が減って仕方なかった。って小説調うぜええwww

まあ、簡単に言えば彼女の家に着いたら文藝春秋があったから借りたというだけの話しw

私は懐疑的な人間なので多くの人が面白いと騒ぐものはみな疑ってかかるたちだ。一言で言えばめんどくさい人間なんです。だから今回もそりゃあ批判するつもり満々で、どこをどう蹴落としてやろうか悪い性格を更に悪くしてヨダレを垂らしながら読み始めると、、、「アレ、これ面白いぞw」と出足からサックリともっていかれたのであります。

芥川賞と直木賞の違いは皆さんわかっておられますよね?純文学つまり娯楽性をもとめる大衆文学ではなく純粋に芸術性をもとめた文学に対する賞が芥川賞で、その反対が直木賞ぐらいの感覚でいいと思いますが違ったらごめんなw

僕は元々、本好きではなかったのだが好きすぎる映画をより楽しむ為に本を読むことが必要だった為、十代の終わりごろから貪るように小説を読んだことがあるその頃ハマッたのは筒井康隆さんのSF、十代の感受性で読むと頭がおかしくなりそうな強烈な文体に鼻の穴を膨らませながら読んだ記憶があります。

筒井先生が鬼才すぎる為、純文学からライトノベルまでなんでも書いてしまう人。その辺から純文学とは、大衆文学とはみたいなことは感覚的にとらえていたつもりだ。なので今回「火花」が芥川賞を受賞と聞いて正直ひっくり返った。いやいやいやいやw芥川賞は他の賞とわけが違うぞマヂかと。作家を志す人ならみな憧れる賞で、何年も何年も書いて書いて書いてもだいたいソッポを向くイヤらしい性格の賞だ。これをサックリとしかも芸人がとっちゃったのだから事件と言っていい。

僕はこの事件をtwitterで知ったのだがその時思ったのは「なんやねーん読まなアカンやん」でした。

んでもって読んだ。ムム、ムムム、アレ?これめっちゃオモロイやんw
形而上学とか哲学とかは僕の大好物なので、いとも簡単に落ちちゃいましたね今回w

「笑い」を哲学するのって強烈に難しいんです。以前、筒井康隆さんとタモリさんの対談みたいのが30年ぐらい前にあってその時の会話が物語っている。

筒井「笑いを哲学するというテーマで対談なんですが、よりによって笑いでご飯を食べているプロがやるというのは大変なことですな、手品師が種を明かすようなもの」みたいなことを言って

タモリ「じゃあやめます」

筒井 「終わった」

編集 「こ、困ります!」

みたいな流れを読んだ記憶がある。

実際はそのあと真面目に「笑い」の哲学について語るのだが糞ムズくて笑えるよ。

同じ芸人で本を出した人いましたよね?劇団ひとりとか品川とか爆笑太田とか。まあ、全部読んでないのでなんとも言えないのですが、多分お笑いのことは書いてないと思うんですよ、いやむしろそれが普通なんです。

普通は書けないんですよ。笑いが難しいから書けないんじゃなくて、それで飯を食ってる人が「笑い」とは?を本に書くという行為そのものが、ほぼ崖から身を投げるに等しいからだ。

それを又吉はやってしまった。本来はこの勇気だけで賞を貰えるぐらいなのだが、よりによって芥川賞とはいい世の中になったと思う。

内容は「僕」と先輩芸人の「神谷」との掛け合いだ。これだけでもっていくだろうと神谷が出てきた時点で思ったら本当にそうだったwww 場面の移り変わりも新しい登場人物も大してない。がしかし濃い。泥棒のヒゲぐらい濃い。ケンタッキーを食べた後の天丼ぐらい濃いのだ。

又吉の「笑い」に対する情熱を感じないわけにいかない内容になっている。この熱を選考委員の先生方は評価したのではないか?と思う。

まあ、アラを探せば最後のオチに注文がつきそうだが、それを含めても書いちゃった勇気を評価せざるを得ないでしょ。

糸井重里さんが「普通は良く思われたい良く見られたいと思うのにどうやってその感情を抑えたんですか?」と又吉に聞いていた。この質問すげーわかるんだな。読むとわかる。だって一切ないからね。簡単に裸になってみせた又吉。

多分彼の中で美しいということは同時に凄く醜いものであるという対立するものを同時に成立させているものが「人間」というものではないのかという、かすかな感覚があって、その醜さからくるいろいろな感情や行動がタイミングにより物凄く滑稽なものにかわる瞬間を切り取った時、「笑い」が産まれるのではないか?という形而上の感覚を紙に書きなぐったら芥川賞とれちゃったテヘペロってとこなんじゃないかと勝手に思ってます。

室町時代の美人が現在の美人にならないように「笑い」も絶対的価値があるわけではなく常に相対的に作用するものだから形而上や哲学的に探求すると終わりがないのであります。この終わりがないものという物は得たいの知れない何かなので、前にブログでも書きましたがいい芸術作品というのは必ずこの得たいの知れない何かを表現するために四苦八苦し真正面からぶつかった結果にできるなにがしらだと思うんです。

うん、火花ヨカタよ。

けど面白さで言えば樋口さんの「さらば雑司ヶ谷」のが面白かったかなあ。あっ安心してください僕は性格が悪いんです。んじゃ

2015年8月4日火曜日

世の中が甘くないのはいいこと

世の中そんなに甘くないなんて耳にしすぎてなんにも感じなくなるぐらいだ。

しかし、逆に世の中甘かったらどうだろうと想像してみるとぞっとする。

生物の歴史からみても我々の祖先は奇跡の連続ともとれる逃避術で、あらゆる困難をのりきってきたのだ。だから今、我々が存在することができる。

我々の祖先は恐竜ではない、むしろその恐竜のエサだったのだ。陸に上がる前は海で巨大魚に追われ、川へ逃げ、川の水が干上がっても酸素を摂取できるよう肺が進化し、最終的には陸に上がる。

その間、地球には隕石の衝突や全球凍結などの壮絶な環境にみまわれながら生物は命を繋いできたのだ。

まさに奇跡なのだが、そこで「世の中そんなに甘くない」という台詞を思い出してみる。

んー。ですよねとしか言えない。いやむしろ生物は厳しい環境や厳しい世の中を本能的に望んでいるのではないかとも思えるのだ。あらゆる困難をのりきってきた記憶がDNAに刻まれているのなら、その細胞ひとつひとつが困難を望んでいるのではないか?と。

何故か?進化するために必要な要素が困難に直面することだと生物の歴史が物語っているからだ。

かたいはなしだけでなく、人間的な話しでもそう、簡単なゲームは詰まらないでしょ。難しいから面白いんであって。

告白しても無惨にフラれることのほうが多いからなんとかしてうまくいくように考えたり、気持ちを伝える工夫をするわけで、しかもその涙ぐまし努力を一撃で破壊する最後がまってたりするからHYの歌がいいのだw

これなかったらHYの曲とか存在してないんだぜ?どうよ?ぞっとするだろ。

就職も大変だからできたときの喜びがあるし、結婚なんかできるできないよりした後の地獄がいいよねw

これなかったら小説とかないぜ?どうよ小説がない世界とか?ぞっとするだろ。

なかなか上がらない給料でやりくりしなきゃならない奥様の苦労も家族の為に頑張るお父さんの苦労もいいよね。

これなかったら映画もないかもしれないよ?

Eazy come eazy goはBzの歌だけど、英語のことわざだね、簡単にくるものは簡単に出ていく。

だから困難であればあるほど苦しければ苦しいほど得たときの喜びとその得たものが長く残るのではないかと思う。

だから世の中甘くないのはいいことなんです。

2015年8月3日月曜日

世間

世の中の間と書いて世間。

調べてみたら実は仏教用語らしい。このように日本語には仏教から用いられている言葉が沢山ある。

意味は一般的に使われている世間=社会ではなく、サンスクリット語で「砕く」と意味する言葉が由来で、うつろいかわりゆく世の中で下らない差別にこだわって生きている社会を否定的に意味する。

まあ、仏教の話しは終わらない歌より終わらないのでやめとく。

世間の目とか世間が気になるとかよく聞くじゃないですか。最近の若い子なら「普通」って言葉もこの世間に近い意味になっているのかもしれない。

世の中の間ってなんなんでしょうね?

あんまり好きじゃないけど苫米地さんが動画でこんなことを言ってました。

「台風を指でさして示せと言われてもはそれは無理だ」

これなるほどなと思ったんです。まあ、台風じゃなくても風でも同じなんですが、物質的に目に見えない自然現象を指で示すことは不可能なんです当たり前ですが、しかし確実にある現象というのはわかっているのでその状態に言葉を当てはめていると。

ほんで僕はこの世間ってのも同じように目には見えないけど確実にある状態という部分が似てるなと思ったんです。

なんかお化けを連想しちゃうんですが、触れることはできないが確実にある世の中の間、世間。

2chとかSNSなんかはある意味この世間をある程度可視化したサービスかもしれない。

けど、世間って仏教用語ではダメな世界、破壊されるべき世界として使われていた言葉らしいのですが、僕も同じように考えます。

いや、この世の中を破壊したいとかテロリストを支持してるとかそういうことじゃないですよ。

要するに気にする価値がそこにあるのか?ってことなんす。

ビジネスの世界では多いに関係してくるので勿論気にしないと仕事にならんでしょ。しかし生きていく上で仕事だけが人生の全てではない。

世間の目なんてあるようでないし、そもそもそんなに注目なんてされてないでしょw誰もあなたや私なんて見てないっすよ。

何故か見られてる気がするのが面白いところ。流行りとかもそう、細眉から太眉にかわったから眉毛欲しいってのもなんなんだろうなと思うわけですよ。

あなたが大事な決定を下す時にこの「世間」ってものからどれだけ離れて考えられるかって事が凄く重要な要素だと思うんです。それは自らの目で判断し、自らの頭で考えて行動するということなんです。

だから僕はどんなに歳を重ねても「世の中こういうもの」なんて言わないし思ったこともないですね、だって関係ないんだもん世間とかw

世間の目を気にして生きている人はその世間からなんか恩恵を受けているんでしょうかね?なんにもないよね多分、いや絶対ない。

なにも破天荒に生きようなんて言わないですよ、けど実体もない世間に囚われて生きるより自らの考えで生きていくほうが楽だし楽しいよと。

世間てのはテレビと一緒で見なかったら見なかったでぜんぜん平気なもんですよ。

んじゃ