死ぬってなんだと最近よく考える。
世の中「生きる」ってことと「死ぬ」ってことを切り離しすぎではないかと感じるからだ。
西洋医学の発達で多くの患者が救われている事実を否定するつもりはない。ないがこの時「死ぬ」ってことが最大の敵として扱われているふしがあまり好きになれないのだ。
昔、短編小説でも書いてやろうかと思った事があった、内容は不老不死の薬を開発した教授が自ら実験台になり最初はガハハと喜びまくるが最後に自殺するというあらすじまで、まあつまんねえなとやめたw
この世には二つの相反するものが同時に成立していることが多い。光と影、男と女、生と死だ。
光だけの世界ってなんだ?それじたい光って認識できないよな。影だけの世界ってなんだ。それじたい影なのかわからん。両方の割合は昼と夜で変化するだけ、同時に成立しているからこそ両方を認識することができる。
では何故「生きる」ってことと「死ぬ」ってことを分けたがるのか?実際別居状態じゃないか。これはおかしいと思うのだ。生きるということは死ぬことでもあるし死ぬということが生きていたということになるはずだからだ。死ぬことが決まっているなかで後はいつ死ぬかという可能性が常に内在している状態が生きているという状態ではないか。
だから生きるってことと死ぬってことは切り離せない関係にある筈なのだ。
だから不老不死の薬を飲んだとしたらそれは生きていないのである。だって死なないんだから。最終的に自殺するという結末も生きていたという事実をつくる為にドロドロの溶岩の海に身を投げて溶けて消えるということにしようと思っていた。まあつまらんから辞めたけどwww
生きることばかり口にしているが物凄くバランスが悪いので気持ち悪いのである。薄っぺらいのである。
死ぬということは本当に怖いものなんだろうか?あれだけ簡単に自爆テロやら自殺やら交通事故まで蔓延していて割りと平気でみな暮らしているではないか。
自分の事ではないからなのか?本当に自分の事ではないのだろうか?
僕は死ぬということは本当に自分の事だと思っているし人生最大のイベントだと思っている。間違って欲しくないが決して自殺や戦争を肯定するつもりはない。自殺はしたい人はすればいい、戦争は御免だ。
自分が健康でしばらくは大丈夫だろうと思っているからこんなことが言えるのだろうか?余裕が言わせているか?だったら逆にその余裕があるうちに尚更考えたほうがいいと思うのだ。余裕がなくなってからじゃ考えたり言えなくなるようならあまりに怖すぎるだろ。
最近は癌を治療せず緩和治療だけで最後を迎える人が増えてきたと聞く。西洋医学を全て信用している人は知らないかもしれないが癌を手術してもその再発率、抗がん剤治療、それらの副作用は大変なものである程度年齢が増すと負担が大きい。そんななか穏やかな最後を迎えたいとする人が増えてきているのだ。
マザー・テレサに質問した人がこういいました。
「どうして助からない人に薬を使うのですか?助かる人に薬を集中して使うべきではないですか?」
マザー・テレサ「いいえ、大事なのは助からない人が穏やかな気持ちで死を迎えられるかどうかなのです。」