ある人から勧められAmazonからではなく普通の本屋から注文して購入した。
さして物欲のない私はAmazonを使ったことがなく、なんの疑いもなく本屋の店員に「この本ないですよね?」とスマホの画面を見せた。
彼女に電話でこのことを話すと「そんなんAmazonで頼んだほうが早いやん」と藤原紀香とは違う本物の関西弁で言われ、笑ってしまった。
僕はこの本を勧められたこと、本屋で注文し、読みたいのに読めない時間が与えられたことを何かのサインではないかとまるで「運命」を信じる少年、もしくは童貞を失う直前の少年に戻ったかのような純粋な思いになっていた。
読みはじめるとそんな少年の純粋な思いはズタズタにされ、映画「タクシードライバー」でデニーロにデートを申し込まれた女性がワクワクしながらデニーロにエスコートされ着いた先がハードなポルノ映画館だったというシーンを思いだし、その彼女の気持ちが少しわかるような気になってしまった。
彼女は怒ってデニーロを映画館に置いて去っていくのだが、僕は帰らずにしばらくその映画館でゆっくり映画を楽しむことにした。
人間は不思議な生き物だ。
苦いと思っていたビールが旨くてたまらない。意味は違うけど良薬口に苦しは好きな諺だ。
本物は一見寄せ付けないパワーを出している。そのパワーに負けずグッとこらえた先にめくるめく弱官能の世界がまっていたりすから人生は捨てたもんじゃないと思う。
この小説は僕の人生をかえるきっかけになるのではないかと感じている。
そこまで大きい話しではないよと笑われそうだが、著者が書いた虚構は本物の虚構でフィクションに溢れた都会でそのフィクションを素直に愛した形跡が随所に散りばめられている。
私がよく言っているフィクションとは何かを体を削りながら書いたように思えたからだ。
もしかすると物凄くゆるく、楽に書いていたかもしれない。しかしバッターボックスに立っていたのは私自身なのでそのボールの勢いは鋭くホップしながらインコース高めに食い込んでくる球は間違いなく本物だったと言える。
バットなど振れたもんじゃない。小さいお子様なら失禁しそうな球だ。
僕の脳細胞は喜び不思議な物質をだし続けた。
ただ、書評は読みたくなかった。どうせタランティーノがどうのと書くに決まっているからだ。
最後のページにガッツリと書評が載っていて残念な予想は的中してしまう。
本当に残念だった。フィクションを素直に愛するという行為にもっと焦点を合わせてもバチは当たらないだろ。
僕はこの著者が他人に思えない勘違いをおこしている。多分極度の中毒症状だ。筒井康隆をはじめて読んだ時の衝撃に似ている。
まだ、続編は手をつけていない。いやまだ手をつけてはいけないと勝手に思っている。
実際に雑司ヶ谷に行きたくなった。フィクションに踊らされて実際に雑司ヶ谷の土地で続編を読んでみたいのだ。
爆笑できる予感しかしない。
勿論、ブログにまたアップしますので
次回予告「実際の雑司ヶ谷でさらば雑司ヶ谷RIP を読んでみたwww 」をお送りします。