いやーめんどくせえwww 以前から知ってはいたがそのめんどくさい臭いがプンプンしていたので観るのをためらっていた「爆笑問題」東大での話し。観てしまいました。
京大でのちょいちょいは少し観ていたが途中から飽きて辞めた。理由は太田ではなく京大の馬鹿教授の頭の固さからだ。
太田は芸人でありテレビタレントである。しかもNHKのテレビ番組であり討論番組という前提を無視した頭デッカチの糞教授に観る価値を見いだすことはできなくなった。
この前提条件からくるものは何か?それは太田が言う、「アカデミックな閉ざされた学問という空間で世間との乖離(かいり)がどんどん進めばそれは意味のない世界に行くのではないか?引き戻す力が必要ではないか?」
この引き戻す力=世間一般の理解できる領域=テレビ
少し無理矢理な三段論法ではあるが、そういうことだと思っている。
この辺が理解できなかったのか京大馬鹿教授は最後まで興奮しヒステリックに太田に噛みついていたから笑ったが、何にも建設されない工事現場など誰もみやしないのだ。
太田のやり方は昔から一緒で、まず相手を怒らせる、それから意見をぶつけ合うという手法。このやり方に異論はまったくない。私自身懐疑主義者なので、非常に有効な手法、手段である。相手の存在意義、相手が大事に思っていることにまずケチをつける。こうされると相手は自分の存在自体を否定されたように感じ、血圧は上がり興奮状態になり、本音がでる。
つまりお互い裸になりませんか?と言っているようなもの。
裸の付き合いとはよくいったもので、よそいきのカッコでよそいきの台詞に建設的な議論などできやしない。
太田は裸になった上でお互いがそれぞれこう思うという最高のものを出しあって議論したいのではないかと勝手に思っている。
しかし前にもブログに書いたが、批判や否定は難しいのだ。批判する対称を上回るなにがしらがないとできない。つまりそんなものなくても俺は立っていられるよ何故ならこうだからと説明できないといけないから。これは常に考え、常に疑っていないと出てこない。
疑うという行為は何かをみがく行為に等しい。疑っても疑っても残るものが人それぞれにあるからだ。その残ったもの出せよと太田は言っている。お前がみがいた石はそんなものかと貶してくる。ムカッときた東大教授が東大教授というスーツを脱ぐことなく綺麗にかわす。
インテリとはこうだと言わんばかりに綺麗なかわし、そこで太田は泥臭く煽り続けるといった流れ。
「教養」とはという題名だが、予想どおりまっすぐ哲学、形而上学、人間とは何か?というとこに行き着いていた。
疑い続ける力ってのは実は何かを信じたい何かがあるんじゃないか?と期待してるが故にわいて出てくる力だと思うのだ。
だから太田は結構ロマンチストだと思っている。意外に思われるかもしれないが、多分間違いない。期待してるが故に疑い、期待してるが故にまず相手を怒らせるのだ。
めんどくせえと言いながらこのブログのがめんどくせえwww
まあ、暇な人は観るとなかなか面白いかも。↓んじゃ
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