「なんかわかる」これは大事だ。
うまく説明できないが分かるという事だと思うが。この説明できないという部分は言葉に変換できない、もしくは意識ではどうしようもない部分なはずだ。
感覚の世界。
無意識の世界だ。
フロイトやユングを読んだり勉強した人は理解しやすいかも知れない、無意識の世界。
我々が意識する部分など氷山の一角にすぎないのだ。
脳はわがままな性質上この無意識にあまり気をつけてこなかった長い歴史がある。
偉大な哲学者であり精神科医であったフロイトは無意識の世界を紹介した極めて貴重な存在と言える。
このなんか分かるという言葉は正直すぎて好きになる。
科学の発達においてあらゆるものが証明され科学的であることが現代社会において最も信頼を得るものだという風潮は今もなお顕在している。
しかし、どうだろうか?
まず、この矛盾の説明はなかなか難しい。
何故、多くの偉大な哲学者や科学者や物理学者のほとんどは熱心なクリスチャンだったり宗教家なのかという部分。
科学と宗教は一見、相反するものに見えるかもしれない。実際科学的な新たな発見者は宗教会から「神への冒涜だ」と批難されたり弾圧を受けたりしてきた。
聖書の解釈と科学的に証明されることとのギャップを「神への冒涜」として埋めようという動きである。
わかりやすい動きではあるが、その科学者の多くが熱心なクリスチャンだったりするから世の中は皮肉で構成されているとしか思えない。
だから、科学や宗教といった極端なものであったとしてもどこかで繋がっていて単純に対立するものじゃない。
偉大な哲学者や科学者達ははっきりと出来る部分ははっきりとさせる事で、より神の偉大さがわかると解釈した。
頭がよすぎて笑える。
話しがそれすぎてすまない(笑)
言いたいのは「なんかわかる」との言葉の「なんか」の部分は無意識のものだという事になる。
意識できる部分は明らかに少ない。氷山の一角だ。
得たいの知れないなにかという、無意識の中にある声に耳を傾け、上手にそれを形にできる人達を私は尊敬している。
例えば、作家であり、芸術家であり、映画監督であり、まだまだ沢山いますね。
それらの作品に触れると、この「なんかわかる」がいっぱい感じることができる。
もちろん根拠やエビデンスも大事。でも私は「なんかわかる」も大事にしたいと思うのであります。