この前本屋にいったとき百田氏の「殉愛」とマララさんの本が別の棚に置かれていた。
よく売れるのだろう。どちらも読んでいないが、ふと考える。
マララさんはノーベル平和賞を授賞した方でこのスピーチは強烈
それで、百田氏はなんか訴訟問題に発展してるらしいきっかけになった本という情報だけやたら入ってくる。
この本2つを並べる本屋も本屋でなんだろういやらしい(笑)
マララさんはまるでフィクションのようなノンフィクションの人。
殉愛はイメージだけで言えばノンフィクションのようなフィクションではないかと感じてしまった。
結局どちらもノンフィクションなんだろうが。
それからフィクションとノンフィクションを考えてみる。このわけかたってなんだか弱くなっているような気がするのでありまする。
SNS やyou tube やニコナマやツイキャスとか言った強烈なリアルが当たり前の世の中で、いわいるフィクションと呼ばれるものにリアリティーを追究しようとする方向性はもう終わりかなと思う。
ありそうもないことをありそうに書くのが小説とかの基本的作法みたいなのをどっかで読んだが、もう逆に笑われる原因になってしまうかもしれないと思うのだ。
ドラマもそう。ありえない話しをありえないまま進めるドラマがウケてるでしょ、ちょっと前なら「あまちゃん」「はんざわなおき」とかドラマのリアリティーへの方向性は今つらいんじゃないかな。馬鹿にされてもネタになってくれればいいって割り切るか、もしくはフィクションのフィクションらしさを貫くかの方が楽だと思うけどな。
後は事実をフィクションのように表現するか。
その点アニメーションは最高に楽だよね、はじめから嘘ですって額縁がしっかりあってはなからフィクションを無意識に理解出来る。しかし、ちゃんと感情移入出来るのは主人公はいたって秩序を守った行動をとるからだ。ハチャメチャなキャラクターも秩序の上に成り立つものとする。
となるとどちらがフィクションでどちらがノンフィクションなんてわからなくなってしまうのであります。
フィクションは嘘なんて簡単に片付ければそれまでだが、フィクションは作っている人が過去にいたか今もいるわけで現実の生身の人間が考えた表現だとするとリアルが生んだ表現ということになるし、逆にノンフィクションは事実を元にしているとは言え作者は多少盛るわけだ、伝えたいことがブレないように。
どうしても言葉には嘘が含まれてしまう特性上仕方がない。
考えれば考えるほどこのワケカタはわからなくなるのであります。
ただ「殉愛」は読んでないけど逃げ道にフィクションということにしとけば良かったんじゃね?なんて思うのであります。そういや弟もそんなこと言ってたな。
0 件のコメント:
コメントを投稿