うっす。
今日は肩書きについて。
肩書きとはなんなのかを考えてみる。
仕事をするといろんな人に出会う。驚くような発見とか、なんか嫌だなあなんて事も沢山。
だいたいの人は仕事を一緒にすれば見えてくるものです。たとえ使っている言語が違ってもそれはそれは本当によく見えるのです。
その人がどんなに繕っても隠しきれません。
その人間の性格がもろに出ます。オフィスラブなんかはこのせいでよくあるのかもしれない。
そんな裸の性格がぶつかりあう職場に不思議な力を発揮するものがあります。
そうです「肩書き」です。
会社によっていろんな肩書きがあると思いますが、だいたい主任、係長、課長、部長みたいな流れで肩書きがありますね。
僕は肩書きで人を見ることは基本的にしませんが、確かに肩書きが力を発揮するケースは存在するし、会社において重要なポジションであることは間違いない。
人と人は対等であるべきという理想論は私も支持するし異論はないのだが、会社という組織に属しているとこの理想論だけでは破綻するケースが多々ある。
肩書きとまで言わなくても先輩後輩の関係においてもそうだ。力関係が先輩から後輩へ。
肩書きなら社長から末端へ流れている当たり前の話しだ。
この時、人間はよく悩む。
それはそもそも上下のない人間が上下関係を見える形にされているから、それぞれの立場の違いから生まれる摩擦や葛藤だろう。
前に旭川のサンロクでよく飲みに行っていた飲み屋のマスターといろいろ話しをしたことがある。
「優秀な人間ばかり集めて成果を出すのは簡単だよね、だからぜんぜん使えないって人を使って成果を出せないとダメなんだよ」
とマスターは言っていた。
いい哲学だなあと思ったし、飲み屋に限った話しではなさそうだ。
人を使う側の話しではできる人ほど去っていき、できない人ほど残っていくなんて嘆きはよく聞くのだが、マスターのように、そこが腕のみせどころだと言って張り切る人はなかなかいない。
まあ、この辺の話しはまた今度。
話しを肩書きに戻す。
言葉は心がこもってないとダメだなんて言われるが、言葉が心をつくっていくこともあるということは間違いない。
お経や念仏もそうだ。ひたすらに繰り返すことでつくられるものがある。
それは肩書きも一緒かもしれない。中身が値するしないの話しではなく肩書きがその人をそれらしく成長させてくれるものだということ。
係長になり一年も立てばもう係長らしくなっていたりするものだ。
この時大事なのは肩書きは偉そうにするための道具ではなく、自分をより成長させてくれる道具だと考えなければならない。
部下に嫌われたくないために仲良しごっこをするのもダメだ。
自分の事を棚において話さなければならない。もっと言えば演じなきゃならないのだ。俳優だ。
上司として嫌われても言わなきゃならんのだ、ツライけど(笑)たまに嫌な性格丸出しで嬉しそうに説教してくる人もいるけどね。
優しい人はツライかもしれないね、上から言われ、下から言われ。よく聞くでしょ。板挟み。
けど、このあたりの板挟みや大変だみたいなところで立ち止まったり役職の話しを断る人もいるよね、話がきているのにも関わらずだ。
僕はもったいないと思う。なにも出世がすべてだなんてまったく思っていないし、そんな肩書き欲しさに胡麻をするようなことはしなくていいと思っているが、仕事をこなしてある一定の評価をされているのは間違いないのだ。
じゃないとそんな話しはこないからだ。
僕は素直にその話しはのるべきだと思う。役職がついたら大変だというが、末端のままいっても確かに気は楽かもしれない、しかし大変さは変わらんぞい。
仕事辞める辞めないの話しで言えば極論、いつ辞めてもいいと思ってる。いずれ定年になれば辞めなきゃならない時がくるからね。
なら、その話しを受けて嫌なら辞めてもいいじゃない。やってもいないのにはじめから大変だ大変だと騒ぐ必要はないと思うな。
意外な発見もあるかもしれないし、何よりその人自身がかなり成長するきっかけになるのは間違いない。
子供を持った親が子供と一緒に成長していくように、親になるということ。
肩書きにもそんな作用があるかもしれない。
だから先輩が係長になったらどんなに嫌がられても「係長!係長!」と呼んであげて下さいね。だんだん係長になっていきますから不思議とね。
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