2017年8月11日金曜日

人生に意味はあるのか?

はい面倒くさいタイトルをつけました。暇なんでしょうか?はい暇です。暇すぎて絶対的に面倒くさくなるタイトルをつけてしまえ!と思い実際につけてみた。不思議なものでブログなんてものはまったくもって自由な文章を書いていいはずな場所なのに、いざタイトルをつけると何故かそのタイトルにあわせたものを書かなければいけないという強迫観念が襲ってくる。

書く。


タイトルだけでお腹いっぱいになりそうなので結論からいこう。


人生に意味はあるのか?

あるとも言えるしないとも言える。

うわ、やっちまった。終わった。結論から行くと言って本当に終わっちゃうやつやん。


僕らの生まれてくるずっとずっと前にはもう♩アポロ11号が月に行ったってゆうのに♩よりずっとずっと前から、哲学者達は目に見えない世界(形而上)をさ迷い歩き人生をかけて考えに考え力尽きて逝った。彼らの偉大な功績はやがて弟子や周囲の人間により文字となり本となり時を超えて後世に伝えられていく。それらの本を読んだ後世の人達は時に賛同し時に否定をしてまた新たな哲学を生み、新たな哲学者を生む。この無限ループで今日に至っているのである。

まるでハシゴや階段を少しづつリレーして見えない世界の謎を解こうとしているようだ。
しかし本当に彼らは答えを望んでいたのだろうか?

最近ではピンかパーかの白黒はっきりとしたものが幾分好まれているような気がしてならない。何も難しく考えろとは言わないが、そんなに単純なものって今の世の中どれだけあるのだろう。ジェンダー、政治、メディア、マスコミ、インターネット、テロ、経済、宇宙、AI、哲学、宗教、どれを取っても多様化が進み、どっちが正義でどっちが悪なんて簡単に言えない世界ではなかろうか?だから分からないものは分からないとしないと次に進めないのだ。分からないものをわかるふりをしたところで袋小路サネアツしか待っていないのではないだろう。算数なら分からないところをXとして方程式を続けることができる、なんて正直で素直な学問なんだろう。最終的にそのXの値を出すことも可能になるし。
だから人生に意味はあるのか?は、つまりX。んなもんわかんねーよだ。

ただ1つだけ大事なことは「わかんねーよ」ってことをわかることである。

人間は感情の生き物だ。好きと思えば憎くもなるし、構ってと思えばウザくなる。理屈で割り切れない。人生に意味はあるのか?ってある!と思って明日がイキイキするならそう思うもよし、人生に意味はあるのか?ない!と言って楽になるならそれでいいじゃないか。

哲学者は答えを求めているようで実は求めていない。哲学者が大事にしているのは問いだ。問い続けることを望んでいる。大事なのは答えではなく問いそのもの。

人生に意味があるのか?と言う問いにアナタは何と答えよう、僕は声を大きくして言いたい!それはXと。そのXに何が当てはまるのだろうか?希望か絶望か、はたまた無か、そのXに何を当てはめようかと死苦八苦する旅路。旅の途中で残念ながら亡くなる方もいよう、亡くなった方は生きている人に強烈な答えを残す、アナタも私もいずれ死ぬと。しかしいつ死ぬかは分からない。またXが増えた

僕の父は亡くなる前、僕にあーしろ、こーしろと言わない人だった。言えなかったか言わなかったか?は分からない。ただ言わなかった。それは僕にとって大きい事実である。こうあるべき、こうするべきなんて本当に誰がわかるのだろう。

人生に意味はあるのか?であるともないとも言えるのなら、あるとして考えたいととある教授がNHKの番組で言っていた。僕はその教授に特別嫌な感じはしなかったが、こうあるべき感が嫌だった。NHK、教養番組、大学教授、これだけで十二分に強迫は成立する。

うるせえ。あるとも言えるしないとも言えるなら答えは「わかんねえ」だ。いちいち言わなくても先に答え言ってんじゃん。ゴホゴホ。

北斗の拳は199X年の話し。すげーと思う。いやまだ199Xは来てないじゃん。だって最後にXだぜ、何年にもなるw

わからないことは最後までわからない。でもいいんじゃない?人生がXなら後何年生きるかもわからないし。あとどれだけ不幸になるかどれだけ幸せになれるかもわからんちん。

少し誤解されそうだから書いとくが何も快楽主義ややったもん勝ちを推奨しているわけではない。そもそもわからないんだからせめて自分の人生、自分で考えて歩いてみてはどうだろうか。




2017年8月5日土曜日

ボクたちはみんな大人になれなかったを読んで

僕はまた引越しをした。つまり職場が変わったのだ。同じ場所になかなか定着出来ない性格なのか運命なのかは自分でもよく分からない。兎に角また引越しをした。同じ派遣会社で派遣先だけが変わっだけだ。こんな歳になりながら未だにフラフラとしている自分に半ば呆れているし、社会の底の底で息をしている感覚にも慣れてきた。慣れたくないが。

切れ目なく次の仕事が決まっていても有給などで引越し準備を含め、ある程度の時間が空く。僕はこのことをよく知っている。何度も経験しているから。この空いた時間を割と大切にしている。何故ならこの時間に大切なものに出会ったり、自分を振り返ったり、流れに流されて止まらないロボットのような体を休ませることが出来るからだ。

吸い込まれるように本屋に行った。

僕が買った「ボクたちはみんな大人になれなかった」の値段は1300円。すぐ読んだ。すごく読んだ。なんて安い本だと思った。小説なのに小説じゃなかったし、小説じゃないのに小説みたいな自分でも何を言っているかわからない、作者「燃え殻」さんの記録と記憶がぎっちりと、みっしりと、ねっちょりと、詰まっていて読んでいるこちらをアッと言う間にあちら側に連れていき、古い映画館の席に座らせ、強制的に今まで観たことのない本物の恋愛映画を4点シートベルト付きで観せられた気分になった。

古い映画館に4点シートベルトは似合わない筈なのに、読み終わった後シートベルトを撫でたくなった。これが無かったら帰ってこれない感じがしたからだ。

本当のこと、その人の思い出、整理したい記憶、忘れられない人、これからの道。

つい最近みたyou tube動画で元2ch管理人ひろゆき氏がこんなことを言っていた。「あのー、記憶力がいい人ってのは不幸な人が多いんですよ。動物として怪我をしたら次から気をつけるように、こころが傷ついても同じように気をつけて次からはそうならないように、そうなった原因を記憶する。だから記憶力がいい人ってのは不幸な人が多い。」と。

いつもの様にひょうひょうと話されていたので一瞬スルーしかけたが、いやそれ俺じゃん。つかかなり多くのひとは当てはまるのではないだろうか。嫌なことを忘れられるほどの幸せを感じていない方、自信のない方、どんな尺度から自分を見ても少し低い位置にいる感覚。なんとなく典型的な日本人にも見えなくないし、少しロシア人にも見えなくない。

暗い国民性の文学は優れているように映るのは何故だろうか?実際この二つの国の文学は優れていよう。

もしかしたら寒い冬が記憶力をDNAレベルで強くさせているのかもしれない。

ただこんなに別れた昔の恋人を心の底から尊敬できる人は何人いるだろうか?はじめから最後までそのリスペクトはページから滲み出ていた。

ダニーボイルにも感じた感覚があった。「あっこの人すごく優しい人だ。」ずっと優しい匂いは消えなかった。

人の人生はすべて純文学かもしれないと思った。別に値段をつけて売るつもりもなく、かと言って雑に整理するわけにもいかない。そこまで人は強くないのだ。人前では話したくない嫌な記憶や思い出も書き出すと不思議にプラスに変化してしまう法則を数学者は見つけただろうか?見つけても証明はできまい。

昔の自分が強制的に蘇ってきたり、忘れていた傷に塩を塗られる感覚に襲われる場合もあるので注意が必要ですとは帯に書いてなかった。ただ読み終わると今自分に大切な人や昔の大切な人のことを今よりずっと愛しく思える。大事にしようと思うんだ。